로그인若葉が幸吉を出ていくのを見送ってから、ルナは焼き台の前に戻った。
また来ると言ってくれた。祖母の腰を思えばありがたいし、若葉自身も、ここで働けるか試してみたいのだろう。そう思う一方で、ときおり硬くなる若葉の表情が気にかかっていた。 「若葉ちゃん、明日も来てくれるみたいで、助かるわ」 祖母が、連絡先を書いたメモ帳をしまう。 「まあ、そうだけど。若葉さんにもあんまり無理させないでよ、バアちゃん。僕が手伝うからさ。じゃあ、いったん戻る。混んだら教えてね」 ルナは火ばさみを置いた。幸吉の店先の札は、もうすぐ『準備中』から『営業中』へ変わる。 幸吉が混み合わない限り、この時間から隣の時計修理マロンで仕事をするのが、最近のルナの日課になっていた。 幸吉を出て、隣のマロンの扉を開ける。 作業台では、今日の午前中に客から預かった腕時計が、手をつけられるのを待っていた。今日中に状態を確かめ、明日には連絡すると約束している。 「さてと、早いうちに終わらせないとな……」 ルナは片目にキズ翌日。 マロンを開ける前に、ルナは祖母の暮らすほうへ顔を出した。廊下のカーペットの上に、若葉が立っている。不安そうな顔で両手に抱えた盆には、昨夜のおかゆの器が載っていた。 「若葉さん。おはよう。眠れた?」 「あ、おはようございます……はい。あの、これ、返そうと思って」 「うん、ありがとう。持つよ」 盆を受け取ると、器は空になっていた。 「あ。全部、食べてくれたんだ」 「はい。おいしかったです……ほんまに、ありがとうございました」 「そっか。よかった」 ルナは思わず口元を緩めた。昨夜は熱が高く、だいぶつらそうだったため、食事をとるのも難しいかもしれないと思っていた。だが、空になった器を見て、ようやく胸をなで下ろした。 若葉の頬の赤みは、昨日より薄い。熱は少し下がったものの、早朝の清掃は今日も休ませてもらったという。 「まだ無理しないでね。ここ、座れる?」 祖母の台所へ案内し、椅子を引いた。若葉は恐縮した様子で腰を下ろす。家を追い出されたばかりなのだ。一晩眠っただけで、何もかも落ち着くはずがない。 ――お願いや。私が悪いんです。お母さんには、電話せんといてください……。 昨日、若葉は必死にそう訴えていた。彼女の家族について、どこまで尋ねていいのだろう。 そのとき、一昨日、マロンで突然尋ねられたことを思い出した。 ――ルナさんのお父さんって……何ていうお名前ですか。 唐突な問いだった。父親の名前など、これまで人に聞かれたことはほとんどない。 ルナは盆を流しの脇へ置いた。 ――一応、海老原幸大っていうんだけど。 あのとき、そんな曖昧な答え方をしたのは、自分には父と呼ぶ相手の記憶が一つもなかったからだ――。 お茶の支度をしながら、目を伏せる。 ◇ ◇ ◇ 幼いころのこと。 「お前の親父、最悪でしょー?」 リリは酒を飲みながら、そう言って笑った。 幸大には、結婚を間近に控えた婚約者がいたという。だが、リリが子どもを身ごもっ
――僕が、なんとかするよ。 ルナの言葉を、若葉はうまく受け止められなかった。薬の袋を握ったまま、彼を見上げる。 「……でも、私」 「まず、横になれるところへ行こう。といっても、心当たりは一つしかないんだけど」 ルナは少しかがみ、若葉と目を合わせた。 「僕、店の奥に住んでるんだ。バアちゃんも住んでるけど、生活する場所は分かれててね。バアちゃんのほうに使ってない部屋があるから、そこで若葉さんが休めるように僕から話すよ。もちろん、若葉さんがよければだけど」 「幸子さんにまで……そんなん、迷惑を」 昨日、勝手に辞めると言ったばかりだ。しかも幸子は、海老原幸大の母親。その家にまで上がり込むなんて。 けれど、ほかに行ける場所は思い浮かばなかった。 そのとき足元がふらつき、ルナが若葉の腕を支え直した。 「危ない。大丈夫?」 ルナの腕に力がこもる。 ここで立ち往生するほど、かえって彼を困らせてしまう。 若葉は観念したように口を開いた。 「……少しだけ、お世話になってもええですか」 ようやくそう言うと、ルナはうなずき、スマートフォンを取り出した。 + + + タクシーの中で解熱剤を飲んだ。やがて時計修理マロンの前に着く。ルナに案内され、若葉は店の裏口から中へ入った。そこはルナの説明どおり居住スペースになっていて、表がマロンであることを忘れそうなほど、ごく普通の家の内装だった。 ルナに続いて廊下を進むと、床がフローリングからカーペットに変わった。ルナが振り返り、「フローリングが僕のスペース。こっちのカーペットが、バアちゃんの住んでるところ。分かりやすいでしょ」と笑った。 ちょうどそのとき、幸子が奥の部屋から出てきた。 「若葉ちゃん!」 心配そうに眉を下げる幸子から、若葉は目をそらした。 「心配したのよ。やっぱり顔色が良くないわね。こっちよ。ゆっくりでいいから」 「あの、すみません。昨日、急に辞めるなんて言うて……」 「その話は、元気になってから聞かせて。まずは休
返ってきたのは、若葉の浅い息遣いだけだった。明らかに様子がおかしい。 受話口の向こうから、電車の到着を知らせる放送がかすかに聞こえた。 「若葉さん、もしかして駅にいる? マロンの近くの駅?」 『……はい』 「商店街側の出口?」 『そこの……ベンチに……』 「分かった。動かないで。今行くから」 ルナは作業台の時計を保管用のケースへ戻し、マロンの扉に外出中の札を掛けた。店の脇から自転車を引っ張り出す。とにかく急がなければ。走りながら、頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。 駅手前の駐輪場に自転車を停め、電話で聞いた出口へ急いだ。ベンチの端に身を縮める若葉がいた。上着も着ず、両手で二の腕を抱えている。 「若葉さん!」 駆け寄って顔を覗き込む。呼びかけても、彼女はすぐには顔を上げなかった。 「……ルナさん」 ようやくこちらを見た目は潤み、頬だけが赤い。ルナは上着を脱ぎ、若葉の肩へそっと掛けた。 「よかった。見つかった」 「すみません。私、幸吉……」 「うん、聞いた。でも、その話はあとで。それより、若葉さん、熱があるの?」 「はい……」 若葉は立とうとしたが、途中で膝が折れた。ルナはとっさに腕を支える。薄い袖越しにも、体の熱が伝わってきた。 「若葉さん、病院へ行こう。一緒に行くから」 「せやけど、お金……」 「僕が出す。今は気にしないで。まず診てもらわないと」 若葉はうつむいた。ルナは支える腕の力を緩めず、返事を待った。やがて、彼女が小さくうなずく。 スマートフォンで近くの内科を調べ、受診できることを確認してからタクシーを呼んだ。待つ間、ベンチに座った若葉は、借りた上着の襟元を握りしめていた。 「……すみません。急に辞めるって……言うたのに、また迷惑――」 「関係ないよ。電話で様子がおかしかったから、心配になっただけ。会えてよかった」 そう答えると、若葉は上着に顔を埋めた。肩が何度か震えたが、咳なのか泣いているのかは分からない。ルナは何も尋ねず、隣に座って
― 11月の連載予定日 ―(曜日)日・火・水・土 ●午後21時07分(日本時間)頃 ●各1話ずつ更新されます。月・木・金曜はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。 花絵 ユウキ
前髪を掴まれたまま、若葉は母を見上げた。 「……何、その顔。まさか、また辞めるつもりなん?」 「ち、違……」 違う、と言い切れなかった。幸吉へ行けば、ルナに会う。母が憎み続けてきた海老原幸大の息子に。 「けど、明日はちょっと……行けるか分からへん」 「なんで。怪我でもしたん?」 「そうやなくて……」 母の手に力がこもる。痛みに目をつむった。ルナに父親の名前を聞いたと話せば、海老原家の店で働いていたことまで知られてしまう。彼を好きになりかけていることなど、絶対に言えない。 「それとも何。また何か失敗して、辞めさせられそうなん」 「お店の人は、親切で……」 「ほな、やっぱりあんたのせいやないの」 母が髪を放すと、若葉はそのままゴミ袋の山に崩れ落ちた。頭を押さえたまま、しばらく起き上がれなかった。 「あたしは今からまた働きに行くんやで。あんたが仕事辞めたら、今月の生活費、誰が出すん。ええ加減にして」 「朝の清掃は続けます」 「それだけやったら足らんから、焼き肉屋にも行っとったんやろ」 言い返せなかった。焼き肉屋ではなく、焼き鳥屋だ。そんな訂正をする権利すらない気がした。実際、母の言うとおり、清掃の収入だけでは暮らせるほどのお金を家に入れられない。 母は三面鏡のそばからスマートフォンを取り、求人画面を突きつけた。風俗店の体験入店について書かれている。 「あんた、前にキャバクラやらせても無理やったな。でも、これやったら稼げるやろ。明日、行ってき」 「……そんなん、私にできるか分からへん」 「やる前から何言うとるん。まず体験して、それから決めたらええ」 初対面の人とまともに話すことさえ難しい自分に、画面にある仕事が務まるとは思えなかった。だが断れば、今夜からどうやって暮らすつもりかと母に問われる。 若葉はゴミ袋の山から起き上がった。そのとき、母の足の爪を彩るペディキュアが目に入り、きれいな色だと思った。こんな古びた家の床を歩かされるのが、かわいそうになるほどに。 「……一回、行ってみる」 自分の声とは思えないほど小さかった。それ
昨夜、若葉は、明日こそ幸吉へ行く前にルナに父親の名前を聞こうと決めた。それなのに、早朝の清掃の仕事を終えても、時計修理マロンへ向かうことができなかった。行こうとすると、膝が震えて改札をくぐれない。結局、幸吉へ行く時間になってしまった。 幸子の腰の具合も悪くなく、開店準備は順調に進んだ。その日の仕事も無事に終え、若葉はエプロンを返して、幸吉を後にした。 ――帰りこそ、ちゃんとルナさんに聞かなあかん。 隣の時計修理マロンまでは、たった数歩だ。尾木の家から腕時計を持ち出して走った距離のほうが、何倍も長い。それに比べれば、たやすいことのはずだ。 マロンの前に立つ。ガラス戸に映った自分の顔があまりにもこわばっていて、若葉は一度だけ深く息を吐いた。 ――ぜんぶ、海老原のせいで……! 母の声が頭にこだまする。それをかき消すように、ぎゅっと目をつむってドアを開けた。 目を開けると、ルナが作業台から顔を上げていた。「若葉さん。お疲れさま」 ルナのやさしい声が耳に入るなり、心臓がうるさいほど高鳴った。これから聞こうとしていることが怖いのか、彼を慕っているからなのか。それとも、そのどちらもなのか。もう分からなくなっていた。「はい。あの、お仕事中にすみません」 汗ばんだ手を握り直し、若葉は言った。「うん、大丈夫。ちょうど、いったん手を止めようと思ってたから」 ルナは片目にはめていたキズ見を外した。作業台には、小さな腕時計と、取り外した部品が皿の上に並んでいる。若葉の知らない誰かが、この人の腕を頼って預けた時計だ。 ルナは部品の入った皿を作業台の奥へ寄せ、若葉のほうを向いた。「昨日は、遅くまでありがとう。バアちゃんも、若葉さんがいて助かったって言ってたよ」「私のほうこそ……。急に残りたいなんて言うてしもうて」「嬉しかったよ。僕一人だったら、きっと手が回らなかった」 若葉は彼の手を見た。昨夜、焼き台へ皿を渡したとき、指先が触れた。たったそれだけのことを、朝の清掃のあいだも何度も思い出していた。 &helli







